このページを見つけていただきありがとござまっす‼️
クイズを解いた方、さすがONE'zの投稿で慣れてらっしゃいますね‼️お見事です‼️🐙🤣
ここでは
「ONE'z」の誕生について語らせてください‼️
このバレーボールチーム「ONE'z」は
「宇都琳舜〜うとりんしゅん」という男の子との出会いをきっかけに、
私、石屋辰則が立ち上げました。
私が社会人になったある日、
職場の先輩の誘いでバレーをし始めてからバレーに縁が出始めました。
とあるバレーチームに行った際、
隣のチームの親御さんが連れてきたその子が「宇都琳舜」くんでした。
ある日、いつも通り試合していると、
隣でみていた琳舜がじっと私を見つめ、点取るごとに
「すげ〜」「かっこいい」と歓声。
私も内心嬉しく、試合後「うまいやろ?」と自慢しに行くと、琳舜は
「兄ちゃんみたいになる!教えて!」と。
それからは、人に教えたことはなかったものの、
言われたことが嬉しく私のできることをバレーに行く毎に教え、しまいにはラインもする仲に。
琳舜の成長は想像以上にすごく、ほんの1ヶ月経つ頃にはスパイク・レシーブの型も綺麗になり、
教えた以上のことをできるようになっていました。
ある時、その子を相手に試合したところ、
スパイクが刺さる刺さる‼️
レシーブもいいコースにいてあげるあげる‼️
とてつもなく感動しました🐙😭
その試合終わり、琳舜は自信満々の笑顔で…
「俺、中学でもバレー部行って
もっとうまくなって兄ちゃんより強いスパイク打つよ!
1番になる!日本代表になる!」
「じゃあ日本代表なったらサイン頂戴ね」
「うん!待っててよ!」
それが最後の会話でした。
2日後、2015年11月1日
仕事中にテレビから近くの火事の報道。
そこには琳舜の顔が映っていました。
信じられない気持ちと何にも変えられない感情が渦巻き
気づいたときには琳舜に何度も電話をかけていました。
しかし、応答は全くありません。
その火事で宇都琳舜は12歳の生涯を閉じました。
ハロウィンの夜、友人宅へとまりに行った際の不慮の事故だったそうです。
少年のスパイクの重さ、バレーの想いを語った後の笑顔は今でも忘れられません。
それから私にとって、 “バレーボール” はより大切なものになりました。
「何があってもバレーボールだけはやめない」と強く、強く誓いました。
それから9年経ち、2024年11月。
このバレーチームを立ち上げ、名前を琳舜の「1番になる!」と最後に語った言葉を胸に…
「 ONE'z 」 と名付けました。
末尾を “ s ” でなく “ z ” としたのは、アルファベットの最後であることから、
「最後までやりきる」という、私自身の “ 誓い ” を込めて。
ありきたりな話かもしれませんが、
私にとってバレーボールとは “ 生きがい ” であるとともに、
“ 友との誓い ” とおもっています。
このことは一切忘れずにバレーボールを続けてきましたし、
これからも忘れることなくおもい続けていく所存です。
このことを重荷になど感じたことは一切ありません。
少なくとも、私自身バレーボールが好きですし、
これまでどれだけ悔しくても、どんなことがあっても、絶対に折れたままにはならなかったし、
むしろ、この “ 誓い ” こそが繋ぎとめてくれてたんだなと常々感じています。
琳舜にとっては、もしかしたら逆に重荷になってるかもしれませんねwww
なので、いつか彼に逢えた時に、
「俺、ここまでやったぞ!かっこいいだろ?」って話せるように、
「お前の分もやりきったぞ!」って言えるように、
胸張って逢えるように…
これからもバレーボールは私の “ 生きがい ” であり、“ 誓い ” として続けていきます。
余談ですが、琳舜のご家族とは毎年命日を目途にお会いしています。
とても暖かく仲睦まじいご家族で話していると
まるで琳舜もいるかのように楽しく過ごさせていただいてます。
これからもご迷惑をおかけするかもしれませんが、末永くよろしくお願いします。
なぜこういった形で皆様に読んでいただいてるかと申しますと…
側から見ればただのオッサンの立ち上げたチームですし、
これを知った人が抜けにくくなったり、これがプレッシャーになったりして
自由にバレーしにくくなるのではないか?…というのと、
このことを基に来てくれる人・見てくれる人を増やそうしている感じや
受け取り方をしてしまうのが嫌だったので、
このページを設けました。
いつか、琳舜の夢を叶えられるようになるまで、
このチームを引っ張り続けますので、これからまたご愛顧よろしくお願いいたします‼️🐙🙇🏻♂️💦
長々と語らせていただき、また読んでいただき、誠にありがとうございます‼️
ONE'z代表 石屋辰則(イシヤタツノリ)
